勝手に考察File No.1 「荀紣 文若」

というわけで、正史から略歴年表をまとめたところで雑談。紅海のたわごと考察です。
私にとってこの人は多分三国志の中で一番好きな人でしょうね。10年程前、私の中での三国志第一次ブームが来ていたときにはすでにどっぷりはまっていたという記録が残ってましたw正直そもそも何がそんなによかったのか、未だに不明です。そして訪れた第2次ブーム。レッドクリフだなんだってあったけど、やっぱり帰る先はこの人だった。軍師ならもっと派手な人いっぱい居るし、曹操との君臣関係においてならば郭嘉夏侯惇は非常に魅力的なはずなんだけど。

――そもそも荀紣ってどんな人よ?
正史や注釈から察するに、質素で堅実で真面目な人だったんでしょうね。というか頑固者?(笑)彼の家系は優秀な家系で、当時人々の考え方の基礎となっていた儒教の教えを守る家柄だったようです。荀紣自身も儒教を重んじる考えでした。彼の政策は冷静に時勢を見極めつつも、帝を擁立して大義名分を持たせたりするなど、いわば王道かつ大胆なものだったと思います。また、当時人物鑑定による名声でつながった名士のネットワークは荀家という家柄もうまく手伝って、彼に広大な天下で起きている情報を逐一もたらしたことでしょう。それを上手く分析しつつ舵取りをできた人だったんですね。

――荀紣が選んだ君主は…?
そんな荀紣が戦乱の世の中にあって選んだ君主が曹操。参画時にはまだまだ弱輩勢力だった曹操の下にはせ参じ、人材を推挙・ブレーン集団を作り上げたのは彼でした。多分これが荀紣の最大の功績かな。
その功績のため、彼は帝を迎えた際、漢の尚書令になります。とともに、以後名実共に曹操の留守を預かる筆頭となっていきます。いくら外で勝っても、その間に中がぐちゃぐちゃになったら意味ないですからね。
そういう意味では曹操荀紣は君臣である以外に共同経営者のような側面も持っていたのでしょう。内と外のそれぞれの場所で同じくらい能力を発揮できるパートナーだったのでしょう。

――じゃあ空箱の一件は?
いろいろいわくつきのこの事件。まぁ嘘にせよ本当にせよ、最終的にあまり仲がよくなかったというのは上記の件からも納得できてしまうのが悲しい。そもそも曹操は君主政権を強め、自分の一族に国を作らせることに邁進する以上、名士との確執は必然だったのです。というのもの、曹操は「儒教」という根本的な思考の拠り所となるものに変わって、詩歌などの「文学・文化」というものを定着させようとしました。また、人材の登用に関しても「唯才のみをあげよ」といったように、有能ならば人格は問わないといった具合でした。それは名声をバックにする儒者に対しては相容れないものでした。乱世において、非常に現実的に人材を集め、動かした曹操らしいやり方ですね。以上のことから荀紣が単に漢を復興しようと夢を見て、意見があわなかったわけじゃないことがいえると思います。多くの学者さんが言っているように、あくまで国のあり方・人の考え方の相違だったのだと思います。君主と名士のせめぎ合いはどの国にも言えることで、魏にかぎったことではありません。また荀紣の死後娘婿の陳グンが名士に有利な法案を成立させたりと、この後も続いていくわけです。
というわけで、正史の「憂いのうちに逝去」という一文は、いずれにせよ端的に彼の立場と心情を表しているのかもしれませんね。

でもね。
ほんとのとこ、どうだったかしらんけど。じゃあ荀紣の考えるオチってなんだったのさ?っていう疑問は確かにのこるんだよ。現実的な彼のことだ、まさか曹操が今さら儒教信者になるとも思えなかっただろうし、漢が復興して今までどおりになるなんて思ってなかっただろうしさ。ましてや曹操に取って代わろうなんて思いもしなかっただろうし(思ってたらそれはそれで面白いけど)。
ぶっちゃけ時代の流ってこうゆうもんなんだろうなぁって思うんですよ。
彼が寿春で病に倒れたのも、偶然の必然ってやつで。
多分彼にはいろんな心情が複雑に絡み合ってたはずです。なんてったって、帝の横で滅び行く国家を日々目の当たりにしていたのですから。20年間苦楽を共にした殿との立場、漢の臣であり続けた立場、荀一族の筆頭という立場、儒者としての立場…彼はあまりに多くの立場を背負いすぎたのでしょう。

だから。
タイムマシーンがあるなら、彼の死に際に行って確かめてみたい。一体、本当は何を思っていたのかを。そんでもって、一体本当のところ何を一番守りたかったのかを。
私はそんなところにきっと魅力を感じたのでしょう。

さぁて、次は誰を取り上げよう??

⇒人物紹介詳細【荀紣】ページへ